No.3 「弟子にならないとダメ?群衆では、ダメなの??」

 

 

 

◇◇弟子と群衆の違いとは?◇◇

 

 

 

前回のメッセージで、御国を継ぐなら「弟子の歩み」をしていきましょう!なんてことを書きましたが、「本当にそうなの?」「同じクリスチャンなんだから、群衆でも問題ないんじゃあない?」と思う方もいるでしょう。もちろん「弟子にならないと絶対にダメ!」なんてことは、聖書にはダイレクトに書かれていませんので、著者も断定はできませんが、でも、聖書のあちこちには、それとな~く、しかも、さりげな~く、そんなことが書かれているように思うので、このようなことを申し上げているのです。それでですね、今回は「弟子のメリット」について話しながら、弟子と群衆の相違点について、「概ねこうかなぁ?」と思うことを述べていきたいと思います。

 

 

 

弟子の特権①:みことばのたとえの意味合いを教えてもらえる

 

 

 

〔聖書箇所〕マルコの福音書4:33,34

 

4:33 イエスは、このように多くのたとえで、彼らの聞く力に応じて、みことばを話された。

 

4:34 たとえによらないで話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちにだけは、すべてのことを解き明かされた。

 

 

 

34節「たとえによらないで話されることはなかった」とあります。聖書にはありとあらゆるみことばが記述されています。そして聖書のことばはすべて神さま(イエスさま)の霊感によって書かれたものなので、聖書の著者は神さま(イエスさま)、ということになります。そしてこの時イエスさまが、「たとえによらないで話されることはなかった」と言われたように、「聖書のことばはすべてたとえだよ」ということを言っているのです。しかも「ご自分の弟子たちにだけは、すべてのことを解き明かされた」とあるように、たしかに聖書はたとえで書かれている、でも、「ご自分の弟子たち~解き明かされた」と言われているように、イエスさまの弟子はたとえの意味合いを教えてもらえたのです。

 

 

 

繰り返します。弟子たちはたとえの意味合いをイエスさまから教えてもらいました。それゆえに、聖書に書かれていることを理解できたのです。しかし一方群衆は?と言えば・・・「ご自分の弟子たちだけには」ということばに語りかけを感じませんか?失礼を承知の上で申し上げますが、これは裏返せば、弟子以外の人、すなわち群衆は残念ながら教えもらえなかったのです。これってすごい差だと思いませんか?片や聖書のみことばのたとえを理解した弟子たちがいる一方で、同じ聖書を読みながら、群衆はみことばのたとえを理解できなかったのです。なぜか?とても単純な理由です。イエスさまが教えてくれなかったからです。

 

 

 

そうではあっても、「そんなはずないさ!俺はちゃんと分かっているぞ!!イエス・キリストは処女マリヤから誕生しただろう?父はヨセフだろ?沢山の癒しや奇蹟も行っただろう?それどころか全世界の人たちの罪のために十字架にかかって死んでくれただろ?そして復活しただろう?」とおっしゃるでしょう。そうですね、おっしゃる通りであります。ただですね、聖書は「巻物」とも言われていて、しかもそれは「表にも裏にも字が書いてある」とエゼキエル書に書かれているように、表面だけ読んで理解できる「表の意味合い」と、そしてそれだけでなく「裏にも字が書いてある」という風に、「裏」の意味合いもあるのです。そしてその「裏の意味合い」は「たとえの意味合い」に相当するものなのです。

 

 

 

さらに言うなら、「裏の意味合い」に神さまが本来意図しているもの、分かりやすく言うと、神さまの御心、もっと言うなら、神さまが私たちにして欲しいことが含まれているのです。それを知って、はじめて神さまの御心を知り、そのことを行っていけるのです。なので、神さまの御心を知らないのなら・・・神さまの御心を行うことができない、という理論が成り立ってしまうのです。そうすると、どういうことになるでしょうか?「天にいます父の御心を行う者が、天の御国に入る」と言われているので、御心を行わないなら、あわや天の御国に入れない可能性があるのです。なので、イエスさまから「たとえの意味合い」を教えてもらうというのは、私たちが考えている以上に、とても大事なことだ、ということが理解できるでしょう。このことからも、イエスさまの弟子として歩むということに御心がある、と言えるのではないでしょうか?

 

 

 

弟子の特権②:御国の奥義について知る

 

 

 

〔聖書箇所〕マタイの福音書13:10,11

 

13:10 すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」

 

13:11 イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。

 

 

 

先ほどの話と重複しますが・・・ここでも大事なポイントについて語っているので話したいと思います。10節の「彼ら」とは、「群衆」のことです。「なぜ、彼らにたとえでお話になったのですか」と弟子たちがイエスさまに質問しているように、イエスさまは群衆に対して、たとえでお話をしました。

 

 

 

そして11節では、イエスさまが群衆には、たとえで話をしている理由について言われています。「弟子には、天の御国の奥義を知ることが許されている、しかし群衆には許されていない」と述べています。

 

 

 

「天の御国の奥義」ということばですが・・・少し思い出してみてください。「聖書」という書物は、イエス・キリストを証する書であります。それと同時に、第一ペテロの手紙の1章に「この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました」と書かれているように、「天の御国の道へのガイドブック」でもあります。ゆえに「天の御国の奥義」ということがキーになっていきます。そしてイエスさまの弟子になるなら、「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されている」と言われているように、そのことをも教えてもらえるのです。どのようにしたら、天の御国に入れるか?のヒントや答えを得られるのです。

 

 

 

しかし、群衆の人はどうか?と言うと、イエスさまが「彼らには許されていません」と言われているように、残念ながら「天の御国の奥義」を知ることはないのです。イエスさまが許さないのですから、これはもう、どうしようもないことです。そして「天の御国の奥義」を知らないということは、天の御国に行くためにどのように歩んだら良いかが分からないので・・・要は御国への正しい方向性に至らないので、御国に入るのは難しいでしょう。

 

 

 

たとえばはじめての土地を旅行するときに、特にツアーとかでなければ、普通は地図やガイドブックを持参して出かけますよね。それらに頼っていくときに、目的地に無事到着することができますよね。ところが、「いやぁ、そんなの無くったって大丈夫さ、勘で行こう」なんて言って、しかしいざ、どこか行きたい所に行こうとしても、なかなか目的地には着きませんよね。あわや全く違う場所にたどり着いてしまう、なんてことにならないでしょうか?

 

 

 

こんな風にガイド無しの旅行が無謀なように、天の御国への道に関しても、同じことが言えるのでは?と思います。イエスさまから「天の御国へのガイド」である「天の御国の奥義」を教えてもらわないと、私たちはクリスチャンの最終ゴールである「天の御国」に辿り着くことはできないのでは?と思います。そして繰り返すようですが、「天の御国の奥義」を教えてもらうためには、どうもイエスさまの弟子として歩んでいくことが条件のようです。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません」とイエスさまがハッキリと言われているからです。

 

 

 

弟子の特権③:イエスさまから任命され、働き(奉仕)を任される

 

 

 

〔聖書箇所〕マルコの福音書3:14

 

3:14 そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、

 

 

 

〔聖書箇所〕ルカの福音書9:12-17

 

9:12 そのうち、日も暮れ始めたので、十二人はみもとに来て、「この群衆を解散させてください。そして回りの村や部落にやって、宿をとらせ、何か食べることができるようにさせてください。私たちは、こんな人里離れた所にいるのですから。」と言った。

 

9:13 しかしイエスは、彼らに言われた。「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい。」彼らは言った。「私たちには五つのパンと二匹の魚のほか何もありません。私たちが出かけて行って、この民全体のために食物を買うのでしょうか。」

 

9:14 それは、男だけでおよそ五千人もいたからである。しかしイエスは、弟子たちに言われた。「人々を、五十人ぐらいずつ組にしてすわらせなさい。」

 

9:15 弟子たちは、そのようにして、全部をすわらせた。

 

9:16 するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福して裂き、群衆に配るように弟子たちに与えられた。

 

9:17 人々はみな、食べて満腹した。そして、余ったパン切れを取り集めると、十二かごあった。

 

 

 

「私は教会で○○の奉仕をしています」「僕も□□の奉仕をしています」「俺は△△の奉仕を続けている」という風に、教会へ行っている大半のクリスチャンは、奉仕をしていらっしゃると思います。著者はいくつか教会を変わりましたが、その場にあって、大なり小なり奉仕をさせていただいていました。そしてそのことは、とても感謝なことで、自分にとって大いに益となり、霊的な建て上げにもなり、若干なりとも、周囲の兄弟姉妹のお役に立たせていただけたのでは?と思います。

 

 

 

さて、神さまへの捧げ物と言われる奉仕ですが、奉仕は、神さまの前にいずれも非常に尊いものだと思います。何と言っても、神さまに向けて捧げていくのですから。ですから奉仕をするのがいいのか?そうでないのか?なんてことは、今さら考えるまでもなく、クリスチャンになって志を与えられたのでしたら、奉仕はぜひ、行っていきたいと思います。

 

 

 

それで今回お話したいのは、イエスさまの弟子としての奉仕に関してのことです。今しがた、奉仕をしていきましょう!と話をしましたが、イエスさまの弟子になっていくときに、かつての12弟子のように、イエスさまから任命されて、奉仕を任せてもらえるのです。もちろんすでに教会に行かれていて、牧師や献身者や伝道者のように、要は信徒の人たちに奉仕を指定する立場の人たちから任された奉仕をしていくことは大事なことなので、それはぜひ、続けていただきたいと思います。ただし、それとは別に、イエスさまの弟子としての歩みをしていくときに、「弟子ならではの奉仕」というものを、任されるようになるのです。「ええっ、そうなの?」と思う方もいるでしょうし、「ふーん、別に~」なんていう風に思う方もいるでしょう。でも、これってすごいことだと思いませんか??少なくとも、著者はそう思います。なんと言っても、イエスさまから直に奉仕を任せていただけるのですから。しかもどんな奉仕なのか?と言うと、上記マルコの福音書にあるように、「福音を宣べ伝える」働きをさせていただけるのです。しかも「イエスは十二弟子を任命された」とあるように、イエスさまから任命されるのです。まずは任命されて、それから奉仕を任せていただけるのです。たしかにイエスさまは目には見えないお方なのですが、しかし、それぞれの個々におけるクリスチャンの歩みをご覧になって、「この人!」という人に、「あなたにこの仕事を任せるよ!」という風に声を掛けてくださるのです。そして、任命されたら先ほど話したように、福音を宣べ伝えること、つまりメッセージをすることを許可していただけるのです。

 

 

 

上記のルカの福音書には、かの有名な5,000人の給食のことが書かれています。イエスさまから手渡されたパン(みことば)と、魚(聖霊の働き)を弟子たちが群衆に配りました。これはまさに「メッセージ」を語る奉仕に通じることです。そう、イエスさまから任命されて奉仕を任せられるときに、「イエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福して裂き、群衆に配るように弟子たちに与えられた」とあるように、イエスさまがメッセージを用意してくださるのです。そしてそれを弟子の歩みをしている人たちは会衆に向けて語っていくのです。いわゆるイエスさまが語っておられることを取り次ぐのが、「福音を宣べ伝える」働きなのです。

 

 

 

また、イエスさまの弟子のすべての人がメッセージを語る働きに召されているのか?と言うと、そうではなく・・・しかし、もし、牧師や教師やメッセンジャーにはならなくても、いずれも「福音を宣べ伝える」ことに準じた働きに入っていきます。たとえばメッセージを取り次ぐ立場の人(牧師や教師や伝道師)を助ける働きとかを担っていくのです。それこそ、「メッセージを語る」ことは、教会の核となる奉仕ですが、イエスさまが「この人に任せたい!」と思う人を任命して、何らかの形でメッセージに関わる奉仕に携わらせてくださるのです。このことはたとえて言うなら・・・調理学校に多くの人が料理の勉強をしに行きます。その時、ある人は調理師の資格を取得してレストランで働くことを希望します。しかし、ある人は単なる趣味として学びをします。そうすると、どうでしょうか?そこにいる先生は本格的に学ぶ人には就職の斡旋をするのではないでしょうか?一方、趣味で来ている人たちには特に就職のお世話をすることはないのでは?と思います。

 

 

 

イエスさまも同じで・・・イエスさまのような歩みを志す人には、いずれメインの奉仕をお任せするでしょうし、しかし、群衆の歩みにとどまっているには、特にそういうことはないと思います。ここでは詳細については述べませんが、イエスさまが群衆の人に取り立てて奉仕をお願いしている記述は聖書の中で見当りません。その件で、著者の勘違いや見落としがありましたら、ご指摘いただけたらと思います。ですから、もし、弟子の歩みするようになって、イエスさまから任命されて、福音を語る奉仕に召された時には、ぜひ、すぐに応答していきたいですね。イエスさまに奉仕を委ねられることは、とても尊いですし、光栄なことですので・・・

 

 

 

以上、イエスさまの弟子の特権や、弟子として歩む必要性や理由について、ザッと話をさせていただきましたが、ご理解いただけましたでしょうか?言葉が足りなかったり、説明不足のところも多々あるかと思いますが、もし御心を感じましたら、ぜひイエスさまの弟子としての歩みをしていきましょう!そして天の御国を相続していきましょう!