No.2 「礼服(義の衣)を着て、天の御国へ入る!」

 

 

 

◇◇礼服(義の衣)を着用するためには、どうすればいいの?◇◇

 

 

 

前回は、クリスチャンであっても、天の御国を受け継がない人がいる、ということについて話をしました。多くのクリスチャンは、神さまが主催した宴会に招かれるのですが、しかし、その中で「選ばれる者は少ない」と言われているのです。前回はそこで話が終わったと思うのですが、今回はなぜ、御国に入れなかったのか?の理由について触れながら、そしてそのことを回避するにはどうしたら良いのか?ということをご一緒に学んでいきたいと思います。

 

 

 

それでは、前回引用したみことばを再度見てみましょう。

 

 

 

〔聖書箇所〕マタイの福音書22:11-13

 

22:11 ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。

 

22:12 そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。

 

22:13 そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。

 

 

 

上記みことばにて、御国に入れなかった人(クリスチャン)の理由が述べられています。「礼服を着ないで~」とあるように、「礼服」を着用しなかったため、外の暗やみ(天の御国とは別の場所、恐らくハデスとか火の池と呼ばれるところ)に放り出されてしまいました。天の御国を受け継ぐかどうかは、どうも「礼服」ということばと関係があるようです。ちなみに「礼服」は「衣服」のひとつです。そしてここで言われているのは、私たちが結婚式とかに着用するスーツのことなのか?と思うかもしれません。だとするなら、スーツを持っていない人は、あたかも天の御国に入れないのか!という風に思う方もいるかもしれません。本当にそうだとしたら、何はさておき、私たちはデパート等に行って「礼服」を買わなければいけません。でも、それはあまりにもおかしな話ですよね?しかもイエスさまや12弟子のペテロやヨハネやヤコブや旧約時代の預言者がスーツを購入していたか?あるいは着用していたか?と言うと、そんな記述は見当りません。でも、彼らはクリスチャンが入るべきところ、「天の御国」に入りました。

 

 

 

イエスさまのことを言えば・・・イエスさまはこの世を去るときに「下着」まで取られてしまいましたよね。けれども、その後、天において「栄光」を受けられました。不謹慎に聞こえるかもしれませんが、「裸」で命を失ったイエスさまが栄光をお受けになって、神の右の座に着座されたのです。なので、ここで言われている「礼服」とは、目に見えるものではなく、「たとえ」だということが理解できますよね。

 

 

 

では、「礼服」とは、何を言っているのでしょうか?「礼服」は「衣装」つまり「衣」のことですよね。そして、「衣」ということばが、他の箇所でも使われているので見てみましょう。

 

 

 

〔聖書箇所〕ヨハネの黙示録3:4,5

 

3:4 しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。

 

3:5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。

 

 

 

ここで「白い衣」ということばが出てきます。「白」ということばにもたとえの意味合いがあります。「白」は「義」をあらわすことばです。「白い衣を~彼らはそれにふさわしい者」とか「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる」と書かれているように、「白い衣」を着ている人が、天の御国を受け継ぐことができるのがお分かりになると思います。そして、まさにマタイの福音書の「礼服」とは、黙示録の「白い衣」を指すのではないか?と思います。「礼服を着ていない」とは、「白い衣」つまり、「義の衣」を着用していない、だから天の御国に入れなかったということを言われているのではないかと思います。ですから天の御国に入るためには、「礼服」すなわち「義の衣」を着用しなければならないことが分かります。そうするなら、「入れますよ!」と言われているのです。

 

 

 

たとえばプールに入るのに、普段着を着用したままでは断られてしまいますよね。いくらお金を払っていたとしても、いざ、入ろうとする段階で「ご遠慮ください」と言われてしまうと思います。でも、水着を着用していれば、何も言われませんよね、入ることをそのまま許可してもらって遊泳を楽しめますよね。

 

 

 

天の御国に入るのもそれと同じで・・・残念ながら、私たちが「白い衣」を着用していないときに、神さまから「外の暗やみに放り出せ」という風に「お断り」されてしまうのです。なので、実際の目に見えるスーツはともかく、目には見えない「白い衣」すなわち「義の衣」をまとっていきたいと思います。

 

 

 

それでは、「礼服」つまり「義の衣」を着用するためにはどうすれば良いのか?について話したいと思います。「義」とは、「神さまの義」に通じるのではないかと思います。そして、100%当たっているかどうかはわかりませんが、「天にいます父の御心を行う者が、御国に入る」と言われているので、「神さまの義」とは、「神さまの御心を行う」ことなのではないかと思います。そして「御心を行う」ためにはどうすれば良いのか?と言うと、常にイエスさまに密着する歩みをしていけば良いのです。

 

 

 

それは何か?と言うと、12弟子のような歩み、つまりキリストの弟子になって歩んでいくことです。今の時代で言うなら、「キリストの献身者」です。もし、本当にイエスさまの弟子として歩むのなら、それはそのまま「礼服」すなわち「義の衣」を着用することになるのです。イエスさまの弟子になること、つまりイエスさまと絶えず密着することによって、イエスさまの御心を知り、イエスさまに拠り頼んで、御心を行っていく歩みが可能となるのです。

 

 

 

反対に弟子ではなく、「群衆」の歩みにとどまっていくときに、「義の衣」を着用するのは厳しいと思います。絶対に!とは、言いませんが・・・しかしヨハネの福音書で「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます」とイエスさまが言われています。

 

 

 

「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」とは、裏返せば、イエスさまと密着した歩みを選ばないときに、神さまの御心を行うことはできない、つまり「礼服」すなわち「義の衣」を着用していない、と神さまから見なされてしまうのです。

 

 

 

そして「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます」と言われているように、これはいわゆる、天の御国ではない所、「外の暗やみ」に放り出されてしまうということと、同じことを言われているのでは?と思います。

 

 

 

結論を言うと、「礼服」すなわち「義の衣」を着用しなければ、入るべきところ(天の御国)に入れなくなってしまう可能性が非常に高いので、何が何でも「天の御国に入りたい!」と思われているのでしたら、「礼服」すなわち「義の衣」を着用していきたいと思います。そして繰り返しますが、このことは「イエスさまの弟子」として歩むことに通じますので、いまだ群衆の歩みをしている人の中で御心を感じた方は、ただちにイエスさまの弟子となって歩みをしていきたいと思います。そしてクリスチャンの最終ゴールである「天の御国」に入りたいと思います!