No.11 「仮庵の祭りを祝う(2)」

 

 

 

◇◇町ごとに長老を任命する◇◇

 

 

 

〔聖書箇所〕テトスへの手紙1:5-9

 

1:5 私があなたをクレテに残したのは、あなたが残っている仕事の整理をし、また、私が指図したように、町ごとに長老たちを任命するためでした。

 

1:6 それには、その人が、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、その子どもは不品行を責められたり、反抗的であったりしない信者であることが条件です。

 

1:7 監督は神の家の管理者として、非難されるところのない者であるべきです。わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、けんか好きでなく、不正な利を求めず、

 

1:8 かえって、旅人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり、

 

1:9 教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。それは健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができるためです。

 

 

 

前回は、教会がこれから「背信」していくので、「地下教会」を行っていきましょう!ということで、話をしました。今回はどんな風にしてそのことが実現していくのか?について、話をしたいと思います。それに関して、冒頭のみことばを見ていきましょう。

 

 

 

順に見ます。

 

 

 

1:5 私があなたをクレテに残したのは、あなたが残っている仕事の整理をし、また、私が指図したように、町ごとに長老たちを任命するためでした。

 

 

 

このことばは、パウロが霊の子どもであるテトスに語ったことです。ここでパウロはテトスにお願いしています。「町ごとに長老たちを任命する」ことをです。このことと、前回話をした「地下教会」と、どんな関わりがあるのか?と言うと、既存の教会を出て、これから地下教会を行っていくのはとても尊いことなのですが、その際に「長老」つまり牧師や監督のような立場の人が必要だということです。うまく言えませんが、何かこう、集会を取り仕切っていく人、先陣を切って行っていく人が、さらに分かりやすく言うなら、責任を持って集会を進めていく人が必要だということではないかと思います。「町」とは、各市町村の意味合いもありますが、その他「教会」のことも言われていると思います。ですからここで言っていることは、各教会において、長老、つまり責任者(牧師や監督の立場)を立てていきましょう、ということなのです。そして次節以降では、「長老」の条件について言われているので、見てみましょう。

 

 

 

1:6 それには、その人が、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、その子どもは不品行を責められたり、反抗的であったりしない信者であることが条件です。

 

 

 

①非難されるところがないこと

 

 

 

「非難されるところがなく」のところは、KJV訳でも、同じ意味ですが、その他「罪のない」「潔白な」ともあります。

 

 

 

②ひとりの妻の夫であること

 

 

 

国によっては、「一夫多妻」なんていうこともありますが、しかし、結婚している場合は、「ひとりの妻」の夫であることが条件です。しかし、中には、独身の方もいらっしゃると思います。それに関しての記述は見当りませんが、そうかと言って、「結婚していないと長老にはなれない」ということも書かれてはいません。その場合、どうなのか?についても話したいと思います。

 

 

 

皆さまもそうかも知れませんが、著者が知っている人でも、伴侶がすでに召されていて牧会されている方や、あるいは一度も結婚したことはないが牧会している、という方は、結構いらっしゃいます。たった今、示されたことですが、パウロがその良き模範ではないでしょうか?彼はたしか独身者でしたよね?ちなみにⅠコリント人への手紙には、「私の願うところは、すべての人が私のようであることです。しかし、ひとりひとり神から与えられたそれぞれの賜物を持っているので、人それぞれに行き方があります。次に、結婚していない男とやもめの女に言いますが、私のようにしていられるなら、それがよいのです」と書かれています。

 

 

 

このことからパウロが独り身の立場で、神さまにお仕えしていたことが理解できると思います。しかも彼は、「長老」の役目もきちんと果たしていましたよね?なので、独身の方でも、条件を満たしていれば、「長老」になれるのです。ですから「私は結婚していないから長老の資格がない、無理かもしれない」なんていう風にあきらめることはないと思います。もしその点に関して、著者の捉え違いや勘違いがありましたらご指摘いただければ、と思います。

 

 

 

③子どもは、誠実な信者であること

 

 

 

結婚されているのでしたら、大半はお子さんがいらっしゃると思うのですが・・・ここでは子どもについてのことが、書かれています。「不品行を責められたり、反抗的であったりしない信者であること」とあります。このところはKJV訳では、「罪に問われたり、御しにくいということがなく、誠実」と訳されています。監督、牧師の務めを果たしている親御さんの言うことに対して素直に聞き従っている、ということではないかと思います。次を見てみましょう。

 

 

 

1:7 監督は神の家の管理者として、非難されるところのない者であるべきです。わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、けんか好きでなく、不正な利を求めず、

 

 

 

①非難されるところのない、神の家(教会)の管理者であること

 

 

 

「非難されるところのなく」のところは、先ほどの6節と同じで、KJV訳では、それ以外に、「罪のない」「潔白な」ともあります。なので、長老は、人から非難を受けてはいけません。もちろん「罪」を犯さない人はひとりもいないので、時として、「罪」に入ってしまうことはあると思います。ですが、その時には、すぐに神さまの前に悔い改めて、その都度きよめられていきたいと思います。

 

 

 

また、「神の家の管理者」であることです。ちなみに「神の家」とは、「教会」のことです。そしてこのところはKJV訳では、「執事」「家令」とあります。「執事」とは、国語辞典によると「身分の高い人の家や寺社などで、家事や事務を監督し執行する職の人」とあります。「家令」とは、「昔、親王などの家で実務・会計を管理した人」とあります。まぁ、これは世の中の意味合いですが・・・それこそ教会の牧師が「家事」とか「事務」とか「会計」に励むなんていうのは、少しイメージと違いますよね?もちろん牧師であっても、会社に勤めているという方もザラにいらっしゃると思いますので、その場合は事務を執ったりすることもあるでしょう。あるいは、経理課とかに所属している場合は、会計業務を行うこともあるかもしれません。しかし、これはあくまでもこの世のことであって、家(教会)とはあまり関係はありませんよね?

 

 

 

たしかに教会では、献金を管理したりはしますが、しかし、このことに関しては、聖書ではほとんど力点を置いていません。教会やクリスチャンの中で「会計報告」のことを気にしている方がいらっしゃるということを時々耳にすることがありますが、聖書では逆のことを言われています。それに関しては「細かく勘定する必要はない!」ということを言っているのです。「嘘?そんなはずはないでしょ!」という方に、参考までにみことばを紹介しておきますので、よろしければご覧ください。

 

 

 

〔聖書箇所〕Ⅱ列王記12:15,22:7

 

12:15 また、工事する者に支払うように金を渡した人々と、残高を勘定することもしなかった。彼らが忠実に働いていたからである。

 

22:7 ただし、彼らの手に渡した金を彼らといっしょに勘定してはならない。彼らは忠実に働いているからである。」

 

 

 

たしかに長老の条件のことと、会計報告は何の関係も無いことかもしれませんが、でも、これから教会を運営していく上で、こういうことも心の片隅に入れておいていただけたら良いかなぁと、今後何かの参考にでもなれば良いかなぁなんて思いまして、話をさせていただきました。

 

 

 

随分話が脱線してしまいましたが・・・そう、そして「神の家(教会)の管理者」ということについて少し考えてみたいと思います。そもそも「神の家(教会)の管理者」とは、何か?ということです。聖書の中には、「管理者」「管理人」「管理」ということばがよく使われています。たとえばルカの福音書には「不正な管理人」のことが書かれています。それからパウロは「私たちを神の奥義の管理者だと考えなさい」と言われています。「神の奥義」とは、まさに「みことば」に関することです。そうなんです、つまり「神の家(教会)の管理者」とは、「神のみことば」を扱うことを言われているのです。そしてその役目をするのが、「長老」なのです。さらに言うなら・・・これもパウロが言われたことなのですが、「管理者には、忠実であることが要求されます」とあります。「忠実」と言われているように、「長老」は、聖書のみことばを正しく語ることがとても大事なのです。そうするなら、「神の家(教会)の管理者」になれますよ!と言われているのです。

 

 

 

②わがままでなく、短気でないこと

 

 

 

「わがままでなく、短気でなく」とあるように、わがままでないこと、そして短気ではないことです。「わがまま」のところは、KJV訳ではその他「強情」とあります。要は、頑なになることもダメなのでは?と思います。なので、神さまから何か語りかけを受けたときには、すぐに従っていきたいですね。「短気」のところは、KJV訳では“angry”と書かれています。つまりすぐに怒るのも、NGだということです。たしか、ヤコブの手紙には、「だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません」なんてことが書かれていましたよね。なので、やたらと、あるいはちょっとしたことですぐに怒りを発する、表す、なんてことは、極力慎んでいきたいと思います。

 

 

 

③酒飲みでなく、けんか好きでなく、不正な利を求めないこと

 

 

 

お酒を飲んだり、けんかをしたり、不正な利益を求めないことです。「お酒」に関してですが・・・ここのところは、KJV訳では“not given to wine”とあります。訳すと「ワイン(酒)を飲む癖はタブーです」「ワイン(酒)を飲むことにふけるのはやめましょう」という意味合いです。ゆえに酒飲みはNGだということです。「お酒」のところは、“wine”という単語が使われています。このことばは、黙示録でも使われています。ちなみに黙示録14章には、「不品行のぶどう酒」ということが書かれていますが、この「ぶどう酒」ということばにも、先ほどの“wine”という単語が使われています。ゆえに「不品行」ということばは、ある意味、霊的な事柄をも指すのではないか?と思います。ですから「酒飲み」というのは、単にビールや日本酒や焼酎やワインやウィスキー等のお酒を飲むことだけを言われているのではないことが分かります。そして「不品行」は、良いことではなく、悪いことですよね?ゆえに「不品行のぶどう酒」とは、「悪い霊」のことを言われているのです。ですから、この世のお酒だけでなく、悪い霊を受けないように気を付けなさい、ということを言われているのです。要は、「長老」は、絶えず「聖霊」を祈り求めて、いつも聖霊の臨在に触れていることが大事だ、ということです。続いて見ていきましょう。

 

 

 

1:8 かえって、旅人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり、

 

 

 

①人々を親切にもてなすこと

 

 

 

「旅人をよくもてなし」のところは、KJV訳では“a lover of hospitality a lover of good men”とあります。“hospitality”とは、「親切にもてなす」という意味合いです。信徒の人たちに、あるいはそれのみならず、一般の人たちにも、困っている人や助けを必要としている人に対して、何かと助けの手を差し延べていくことです。そしてこのことは、「長老」にかぎらず、すべてのクリスチャンに、さらに言うなら、全世界の人々に、ぜひ実践していただきたいと思います。

 

 

 

ちなみに箴言のみことばに、「愛顧は金や銀にまさる」ということが書かれています。「愛顧」のところはKJV訳では、“favourfavor〕”(親切、好意)とあります。どんなことであれ、人に「親切」にすることを、神さまはとてもお喜びになるのです。しかもそれは「金や銀」すなわち、「信仰」にまさる、と言われているのです。ゆえにたとえクリスチャンではない、この世の人であっても、実践している人のことをお喜びくださって、何らか良い報いをお与えくださるのではないかと思います。なので、クリスチャンになったらなおのこと、こういうことに目を留めて、ぜひぜひ積極的に行っていきたいと思います。

 

 

 

②善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があること

 

 

 

「善を愛し」のところは「しらふの、酒を飲んでいない」とKJV訳では訳されています。ですからここでも、お酒を飲まないことや悪い霊に触れたり関わりを持たないことが大事だということを重ねて言われています。

 

 

 

「正しく」のところは、KJV訳ではその他「公正」とも書かれています。これはえこひいきをしたりしない、ということをも言われているのでしょうか?「敬虔」のところは、「聖なる」「神聖」と訳されているので、神さまのような歩みをする、ということなのでしょうかね?さらに見てみましょう。

 

 

 

1:9 教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。それは健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができるためです。

 

 

 

①みことばをしっかり守ること

 

 

 

「教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません」とあるように、教えられたみことばをきちんと守っていくことが大事、ということです。「守る」のところはKJV訳では、“Holding”“fast”“faithful”ということばが使われています。「教えられたみことばをぐらつくことのないように、忠実に保持していきましょう!」と、そんな風なことでしょうか?ですから教えに背くことのないように、気を付けていきたいと思います。

 

 

 

②健全な教えを語っていくこと

 

 

 

今しがた、話しましたように・・・みことばをしっかり守っていくときに、「それは健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができるためです」と書かれているように、メッセージを通して会衆を説得することができます。ここのところはKJV訳では、「健全な教理を熱心に勧めて、納得できるように説得できるであろう」と訳されています。健全な教理、つまり正しくメッセージを語ることは非常に大事なことである、ということです。なので「健全ではない教理」には、全くポイントがありません。そのことに関して、少し例を挙げましょう。

 

 

 

「地獄は無い」「死後、セカンドチャンスがある」「煉獄がある」「裁きは未信者だけで、クリスチャンは裁かれない」「イエスさまよりも、マリヤとか法皇や聖人に祈る」「ロザリオで祈る」「クリスチャンは艱難前に携挙される」等です。これらは聖書に書かれていないことなので、こういうことをいくら熱心にメッセージしても、人々に納得や理解を与えたり、説得させることはできません。反対にクリスチャンを天の御国から遠ざけてしまいます。そればかりか、滅びへと向かわせることになります。はたまたメッセージを語っているご本人も、天の御国に入ることは恐らくないでしょう。ですから聖書に書かれている通りに、正しくメッセージを語っていくことに御心があります。そのことを忠実に行っていくときに、人々に永遠の命への道を示すことになり、結果として人々を滅びから救うことになり、ご自身をも救うことになります。

 

 

 

以上、「長老」に関するポイントについて大まかに述べましたが、ご理解いただけましたでしょうか?テトスへの手紙に書かれているように、「地下教会」を行うにあたって、「長老」を立てることにポイントがある、ということをお分かりいただけましたでしょうか?著者なりに、分かる範囲で「長老」に関しての方向性や概要について語らせていただきましたが、概ね把握していただくことはできましたでしょうか?今回はテトスへの手紙から説明をしましたが、Ⅰテモテへの手紙3章においても同じようなことが書いてありますのでよろしければ、ぜひ読んでみてください。参考までに6節には、「信者になったばかりの人」はNGだということが書かれています。

 

 

 

また、「今はどうしても、長老になるような男性が見当らない」などの理由で、女性の方で「長老」になる人もいらっしゃるかと思います。それはそれで良いのですが、しかしその際には、Ⅰコリント人への手紙11章5,6節に書かれているように、頭に「かぶり物」を着けていきたいと思います。これは何を言っているのか?と言うと、自分の上に「権威を置く」ということです。もちろんイエスさまが全てをご支配し、権威を持つお方ではありますが、しかし女性の場合は、目に見える「人」としての「権威」を置くことを、聖書ではお勧めしています。

 

 

 

なぜか?と言うと、すべて当たっているかは分かりませんが、エデンの園での出来事が、そのことを語っていると思います。こんなことを女性の方が聞いたら怒るかもしれませんが、どちらかと言えば、男性よりも女性のほうが惑わされやすいからではないかと思います。もちろん男性も惑わされると思うのですが、特に女性の方のほうが、より惑わしに入りやすいのだと思います。

 

 

 

「善悪の知識の木」に関して、アダムは惑わされませんでしたが、エバは蛇にみごとに惑わされて、だまされてしまいましたよね?また、男性と比べたら、体力的にも精神的にも若干劣りますよね?・・・良くも悪くも、少し弱いですよね?もちろん、それはこの世のことだけで、後の世は全く違いますが、いかんせん神さまがそのように定めていることなので・・・この世においてはこういうことも、きちんと守っていきたいと思います。「もしかしたら、そうかもなぁ」なんて思って、このことを尊重していくなら、神さまからの守りや助けが与えられて、祝福や恵みに入るのでは?と思います。

 

 

 

そしてどんな人を「権威」として置いたら良いのか?と言うと・・・一番良いのは、どこかの教会の男性の牧師さんがいいのでは?と思います。なおかつ同じようなラインや方向性で信仰の歩みや働きをしている人がもっとも適していると言えるでしょう。どうしてもそういう人が身近にいない、あるいは思いつかない、という場合は、まずはお祈りしてみましょう。そうしていく中で、神さまがどなたかベストな方を用意してくださるでしょう。こういうことに関しても、当教会は相談に応じていますので、何かありましたら、何なりとおっしゃってくださいね。せっかく「地下教会していこう!長老として立っていこう!」と決意されているにもかかわらず、条件が揃わないなんていうことであきらめてしまうことに御心はありませんので、ぜひ、何でもおっしゃってくださいね。できる範囲で何か力にならせていただけたら、と思っています。

 

 

 

それから・・・あえて「長老」とか「監督」とか「牧師」なんて言うと、何だか少し身構えてしまうかもしれませんが、そんなに難しく考えないほうが良いと思います。なぜか?と言うと、真に教会を牧し、導いているのはイエスさまですので・・・要は、「長老」とは、「神さまと信徒との間をとりもつ架け橋のような役目」だという風に考えていけば、少し気楽にできるのでは?と思います。

 

 

 

ではあっても、「牧師」になったら、信徒の面倒を見ないと・・・なんていう風に考えたり、「そんなこと自分にできるかなぁ」なんて不安に思う方もいらっしゃると思います。たしかに「長老」(牧師)の立場になったら、はたまたこのことは牧師だけでなく、献身者の方(イエスさまの弟子として歩んでいる立場の人)もそうですが、ある程度は牧会にも携わります。ただ、聖書にこのようなことが書かれていますよね。「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。」と。

 

 

 

私(パウロ)が植えて、アポロが水を注いだ、と言われています。でも、「成長させたのは神です」とあるように、信者のお一人一人を育ててくださるのは、神さまなのです。パウロでも、アポロでもないのです。たしかに彼らは人々を信仰に導いた人たちです。そして「水を注いだ」とあるように、聖霊の働きを人々に与えた人たちでもあります。しかし、実際に霊的に建て上げたり、成長させてくださるのは他でもない、神さまなのです。

 

 

 

ですから、あまり神経質に、あるいはがんじがらめに考えないほうが良いと思います。たとえ「長老」になったとしても、すべて神さまに委ねて、お任せすれば良いのだと思います。それぞれの信徒の人たちが、神さまとの関係を正しく確立するためのお手伝いをさせていただく、なんていう風に捉えておけば良いのだと思います。なので「長老」(牧師)や献身者が「牧会」に関して成すべきことは、みことばから正しくメッセージを語ること、必要に応じて歩みや働きの方向性を示すこと、御心の中でそれぞれの信徒の人に奉仕をお願いすること、信徒のお一人一人の霊性や健康ならびに霊的に正しく成長できるようにお祈りすることだと思います。

 

 

 

それらのことを行っていく中で、神さまによってすくすくと育っていく信徒さんもいるでしょうし、「うーん?」と少し首をかしげてしまうような信徒さんも中にはいるかもしれません。でも、きちんと育つ、育たないか?の責任までは問われませんので、心配しなくても大丈夫です。成すべき示されたことを行っていくまでは、こちらの責任範囲ではありますが、あとのことは、神さまの領域ですので、「自分に何か足りないのでは?」「何か間違えているのでは?」なんていう風にあまり深刻に考えないほうが良いと思います。それでも、「心配」と言う方は、お祈りの中で神さまに確認してみると良いでしょう。何かすべきことがあれば示してくださるでしょうし、特に問題がなければそのままで良いと思います。

 

 

 

牧会に関して、繰り返して言いますが・・・ヨハネの福音書でイエスさまはペテロに「わたしの羊を飼いなさい」と言われていましたように、すべての信者の方はあくまでも「イエスさま(神さま)の羊(信者)」ですので、みことばに準じて成すべきことをきちんと行っているのなら、あとはイエスさま(神さま)にお任せするのが良いのでは?と思います。

 

 

 

また、聖書の中でパウロが「群れの模範」ということをお勧めしていますが、何か特別なことができなかったとしても、信徒の方々に模範を示すことも、良き牧会になるのでは?と思います。それこそ「長老」(牧師)や献身者の方がイエスさまのような歩みをしていくなら、それに倣って歩み出す信徒の方もおられるのでは?はたまた、そのことに続いていく人々が次々とおこされるのでは?と思います。すべて当たっているかどうかは分かりませんが、聖書ではこのようなことを語っているのでは?と思いましたので、とりあえず参考までに話をさせていただきました。

 

 

 

すみません、こんなに長々と話す予定ではなかったのですが、また、「そんなことまで言われなくても結構!余計なお世話です~」なんて言われそうですが、こんなことも、何かの参考にでもなれば、わずかでもお役に立てれば・・・と思いまして、ついつい書いてしまいました。もし、「地下教会」や「長老」のこと、もしくは「献身の歩み」に関して御心を感じましたら、できるところからぜひ、踏み出してみてください。神さまがそういう方に方向性を示してくださり、ベストな道を開いてくださり、助けてくださいますように、陰ながらお祈りしています。