No.10 「仮庵の祭りを祝う(1)」

 

 

 

◇◇地下教会のすすめ◇◇

 

 

 

〔聖書箇所〕マタイの福音書24:15-18

 

24:15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)

 

24:16 そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。

 

24:17 屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。

 

24:18 畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。

 

 

 

日本にいると、今ひとつピンと来ないかもしれませんが、残念ながら、聖書で語る「教会」の未来は、ズバリ!「背信」です。「何を根拠に??」と思うでしょう。それに関しては、聖書の所々に書かれていますが、イエスさまが福音書でも、ハッキリ語っています。よろしければ参考までに見てみましょう。

 

 

 

〔聖書箇所〕マタイの福音書24:1-3

 

24:1 イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。

 

24:2 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」

 

24:3 イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」

 

 

 

少し見てみましょう。

 

 

 

24:1 イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。

 

 

 

ここで、イエスさまが「宮」を出られたこと、そして、弟子たちがイエスさまのそばに行って「宮の建物」をさし示したことについて書かれています。ちなみに「教会」は、聖書の中で、色々と表現されています。「家」とか「畑」とか「都」とかです。そして「宮」も「教会」を指すたとえです。なので、ここでは弟子たちが、「教会」のことについて、イエスさまに質問したい様子が描かれています。

 

 

 

24:2 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」

 

24:3 イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」

 

 

 

「このすべての物に目をみはっているのでしょう」とイエスさまは言われています。「このすべての物」とは、先ほどの「宮」すなわち教会のことです。続いて「石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません」と言われています。「くずされずに」のところは、KJV訳だと、「投げ落とす」「倒す」「覆す」と書かれています。「石」は、主ご自身が「試みを経た石」とか、イエスさまがシモンのことを「ペテロ()」と言われているように、弟子のことを指します。つまり教会で主の弟子として歩みや働きをしている人たちが、投げ落とされずに、もしくは倒されずに残ることはない、ということです。このことは、イエスさまの時代にも、聖書の専門家であるパリサイ人や律法学者の上に成就しました。そして律法学者やパリサイ人というのは、今で言えば、教会で献身の歩みをしている立場の人たち、もっと具体的に言えば、牧師や教師や伝道者や神学者、つまりメッセージを語る立場の人たちのことです。そういう立場の人たちが投げ落とされますよ、倒されますよ、覆されますよ、ということを言っているのです。そしてそれはいつのことなのか?と言うと、3節にその答えが書かれています。「いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう」という風に弟子たちが言われているように、「世の終わり」のことなのです。当時起きた、「宮(教会)の崩壊」が、世の終わりにも再現する、ということです。そして、まさに、今がその時なのです。

 

 

 

「何を言っているのか?ちゃんと建物はあるぞ!」「ローマに建っている数々の立派な会堂は石で作られているんだから、まして観光客が沢山訪れているんだから、そんなに簡単に壊れるわけがないだろう?」とおっしゃるかもしれません。たしかにその通りであります。しかし、ここでイエスさまが言っているのは、目に見える「建物」や「建築物」のことではありません。教会の中身、いわば実質のことなのです。さらに言うなら、「教理」や「霊的な事柄」に関してのことを言われているのです。建物はある、しかし、教理や霊的なことは、崩されていくぞ!それに関して、献身者、つまり牧師や教師やメッセンジャーをかわきりに、それらは始まっていくぞ!ということを言われているのです。そう、いくら目に見える建物が残っていたとしても、教会の実質は、神の前に残らないものとなる、という預言を前もって主は語ったのです。そう、教会の背信について、たとえで主は語られたのです。それでも、信じられない!と言う方もいらっしゃるでしょう。そう言われる方のために、よろしければ少し例を挙げたいと思います。

 

 

 

たとえば、アメリカの一部の教会では、もうすでに、イエス・キリストの名前でお祈りしなくなっているそうです。なんでも、「イエス・キリストの御名によって」のところを「全能なる至高者の、なんちゃら、かんちゃら」と言って、要は、イエス・キリストの名を唱えずにお祈りするそうです。イエス・キリストの名によらないお祈りなんて、一体、誰に向かって祈っているのやら、サッパリ分かりませんよね?それからアメリカもそうですが、日本でも、「同性愛」を容認する教会があるそうです。聞いたところによると、結構規模の大きい有名な教団が、あろうことか同性愛の器を招いて働き(多分メッセージ)をさせているそうです。

 

 

 

こういうことを耳にして、あるいは目にして、どう思いますか?聖書ではイエス・キリストの名によって祈ることが奨励されています。また、同性愛のことは固く禁じています。でも、現実は聖書に反する事柄が少しずつ教会内に入り込んで来ているのです。著者が知り得ることは、ほんの一部のことですが、こういうケースにかぎらず、他にもまだまだ色々とあると思います。少し思いつくところでは、クリスチャンが艱難を通らずに携挙されるなんていう教えも、聖書のことばを真っ向から否定する教えですよね。「地獄は無い」とか「神はあまりにも愛のお方だから、人を地獄になんか行かせない」なんていう教えもしかりです。ですからそういう事柄や、その日のために、私たちは何らか対応をしなければいけません。備えや準備が必要かと思われます。

 

 

 

そうではあっても、「そんなこと言ったって、まだ、早い!」という意見もあるかもしれません。それはそれで尊重したいと思います。でも、「ん?教理がおかしいのでは?」なんて感じる方には、ぜひ、おすすめしたいことがあります。それはまさに冒頭のみことばに書かれていることです。このことも順に見ていきましょう。

 

 

 

24:15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)

 

 

 

ここでも、たとえの意味合いが使われています。「荒らすべき憎むべき者」とあります。これは、「反キリスト」のことです。「聖なる所」とは、「教会」を指します。ですからここで言わんとしているのは、「教会」が「反キリスト」もしくは「反キリストの教理や霊」で席巻されるようになったなら、ということです。そしてその時にはどうするのか?が次節以降に書かれています。また、わざわざ「読者は読み取るように」とまで、書かれているので、教会で語られている教理や霊が、イエスさまからのものなのかどうか?に関しては、よくよく注意を払っていきたいと思います。

 

 

 

24:16 そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。

 

24:17 屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。

 

 

 

教会に、おかしな器が講壇に立ってメッセージを語ったり、変な霊が下すようになったら、「山」へ逃げなければいけません。「山」も、「教会」のたとえです。そしてどこの教会に逃げるのか?のヒントや答えが、17節にあります。「屋上にいる者は~」とあるように、「屋上」の教会です。これは「地下教会」のことです。認知された既存の教会とか正統派と言われる教会はある、しかし、そこはもう、キリストではなく、反キリストに支配されているので、既存の教会を出て、「地下教会」での歩みや働きをしなさい、ということです。

 

 

 

ちなみに「屋上」の教会なんて聞くと、教会の建物の上に屋上を作るとか、あるいは「地下教会」と聞けば、地下室で集会を行う、なんていう風に考える人もいるかもしれませんが、これもたとえでして、形はどうであれ、反キリスト的な教理や霊から逃れるために、既存の教会を離れて、別の場所を確保しなさい、そして歩みや働きをしなさい、ということです。

 

 

 

それでは、地下教会では、具体的に何をするのか?と言うと、おかしな教理や霊に関して、異を唱え、聖書のみことばから正しくメッセージを語る働きをしていくのです。それによって、多くの人が真理に立ち返ることができるからです。そしてそれはそのまま、艱難時代の備えにもなります。いわく、再臨のイエス・キリストに正しく対応できるものともなります。そしてこれらはすべて、弟子訓練の延長線上にあります。ゆえに弟子訓練をしながら、地下教会を行うのです。さらにこのことは、聖書の所々に出てくる「仮庵の祭り」を祝うことに通じることなのです。ネヘミヤ記にも、そのことが記されていますので、参考までに紹介しておきます。

 

 

 

〔聖書箇所〕ネヘミヤ記8:16-18

 

8:16 そこで、民は出て行って、それを持って帰り、それぞれ自分の家の屋根の上や、庭の中、または、神の宮の庭や、水の門の広場、エフライムの門の広場などに、自分たちのために仮庵を作った。

 

8:17 捕囚から帰って来た全集団は、仮庵を作り、その仮庵に住んだ。ヌンの子ヨシュアの時代から今日まで、イスラエル人はこのようにしていなかったので、それは非常に大きな喜びであった。

 

8:18 神の律法の書は、最初の日から最後の日まで、毎日朗読された。祭りは七日間、祝われ、八日目には定めに従って、きよめの集会が行なわれた。

 

 

 

16節には、「屋根の上」に「仮庵」(地下教会)を作ることが書かれています。「屋根」ということばは、先ほどの「屋上」に通じるのではないかと思います。「家」は、「教会」のたとえなので、「自分の家の屋根の上」、つまり「既存の教会」とは別のところに場所を設ける、という風に読み取れます。ですからここでも、マタイの福音書と同じことを言っている、ということがお分かりになるでしょう。

 

 

 

さらに17節でも、そのことを重ねて証することが書かれています。「捕囚から帰って来た全集団は、仮庵(地下教会)を作って、その仮庵(地下教会)に住んだ」とあります。「捕囚から帰って来た」とは、おかしな教理や霊に蔓延されている教会から出て来た、ということを言われています。教理や霊が曲がっている、ということに気付いて、そこから出て来た人たちが集まって、仮庵の祭り(地下教会)を行った、ということが分かります。

 

 

 

ですから繰り返しますが、もし、今現在、通っている教会が、反キリスト的な教えや反キリスト的な霊に席巻されたときには、既存の教会を出て、地下教会での歩みや働きをされることをおすすめします。そのご判断は、個々のお一人一人に託されていますので、御心を感じましたら、ぜひ実践していきましょう。

 

 

 

その際に「仮庵の祭りをしたいけれど、場所が無いんだけど・・・」と言われる方に・・・もし、当教会に通える距離にお住まいでしたら、ぜひ、共に歩みや働きをしていきましょう。でも、地理的に厳しい、無理!という場合は、各市町村で貸してくれる施設や公民館等の会議室とかをお借りしてみたらいかがでしょうか?民間に比べたら、かなり安値で借りられると思います。ちなみに当教会も、市で運営している建物の一室を借りて集会を行っています。それでも、「宗教はお断りと言われてしまった」とか「予算の都合が・・・」という方もいらっしゃるでしょう。心配しなくても大丈夫です、他にも集会を持てる方法を紹介します。聖書に、「家の教会」とか「家にある教会」ということばが書かれているのをご存知でしょうか?これは、こういうことです。あなたがお住まいの家を、そのまま「教会」にできるのです。ご自宅の一室を、集会の場として、お使いいただけるのです。それならどうでしょう?できるのではないでしょうか?

 

 

 

その他、「賛美するのに楽器がない、奏楽する人がいない」「聖餐式の用具はどうしたら?」等のこともあるでしょう。子どもの時に使ったピアニカとか、ハーモニカ、タンバリン、カスタネット、キーボードとかを用いるのもいいでしょうし、それも無理と言うのなら、アカペラでもOKですよ。今まで通っていた教会で歌った賛美歌集や聖歌を使って、賛美できければ十分ですよ。それも持っていない、と言うのなら、覚えている歌を賛美すればいいでしょう。それも難しい・・・と言うのなら、「神さまに感謝を捧げます!」「神さまをほめたたえます!」「神さまに栄光がありますように!」と、口ずさむだけでも良いでしょう。聖餐式に関しては、ご自宅にあるコップ(あれば、若干小さめのもの、もしくは紙コップとかでも代用できます)と、少量のパン(その日の朝食をパンにして、少し残しておくと良いでしょう)と、ぶどうジュースがあれば、OKです。それでも諸事情があって、用意するのは困難!という場合は、神さまに祈って聞いてみてください。良い案や、代用品とか、ベストなアイディアがお祈りの中できっと与えられると思います。

 

 

 

それと大事なことは、神さまに向けられたメッセージです。この用意は、きちんとしておきましょう。なので、大きく言ってしまうなら・・・そう、究極のところ、お部屋と、聖書と、永遠の命へと導くメッセージ、それから聖霊の働きがあれば、仮庵の祭り(地下教会)の条件は整うのです。よく、「会堂を建設する」とか「自宅で集会を開くために、一戸建てを購入する」ということが言われるかもしれませんが、その必要は全くありません。聖書にも、そんなことは書いていませんし、ましてイエスさまがおられたところも、「会堂」ではなく、「荒野」でしたよね?しかし、聖書と神さまからの命のパン(メッセージ)と聖霊の働きはありましたよね?私たちも、それに準じれば良いのでは?と思います。

 

 

 

なお、この件に関して、何かお困りのことや疑問に思う点等がありましたら、当教会に遠慮なくお問い合わせください。ベストな方向に導いていただけますように共にお祈りをしたり、考えたりして、何らか対応させていただきたいと思います。もし、地下教会を開催してみようかな?なんて思われましたら、ぜひ、実践してみてください。